2009年1月31日土曜日

"Supercapitalism" Robert B.Reich

 著者は、民主主義と資本主義という二つの制度の境界を明確にしなければならないと述べる。然るにそれは、資本主義が民主主義を崩壊させうるからである。

 70年代以前の米国では、その境界が明確であった。当時のアメリカを支えていた自動車産業などの第二次産業は 結果的に公共の利益を社会にもたらした。
 彼らはその規模の経済を守りたいがために、そして生産に影響を与える労働ストライキなどを抑えたいがために、競争の抑制・利潤の社会的分配に合意していた。そしてそのような役割を担うがゆえに社会全体からの支持も必要としたので、利益の配分・雇用・地域社会・環境といった幅広い部門で政府と交渉していたのであった。
 ただし、その代償として消費者・投資家には非常に限られた選択肢しかもたらさなかったことも明記しなければならない。技術革新の発生もあまり起こらなかったし、より安価な商品を享受することもならなかった。
 
 然るに、70年代以降の米国ではこの状況が一変し、著者が『超資本主義』と呼称する状態が生まれる。
 冷戦を戦うために政府が開発した科学技術が 新製品やサービスによって実用化されたころからこの状態は始まる。これらの競争は安定した生産システムに風穴を開け、市場の競争が熾烈になったのである。
 これがもたらした結果は、大きく二つに分けられる。
 まず市民は、消費者・投資家としてはより良い条件が得られることとなった。技術革新も多く起こるようになり、より安価な商品を享受できるようになった。
 しかし市民は『市民』としては条件が悪化した。富の分配の調整、そして市民達の共通の価値観を守っていた制度が崩壊し始めた。巨大企業の後退、労働組合・監督官庁の影響力の弱化、そして企業のCEOたちは以前のように公的部門に関心を抱いていられなくなった。さらに、政治家は、地元経済・地元社会よりも自らの政治活動に必要な資金集めに奔走するようになり、企業ロビイストたちが行政・立法に介入してくるようになった。

 資本主義が民主主義に侵食しつつあるのは二つの理由がある。
 第一に、現在 私達が市場で行う反応というものが 市民としての私達の価値を十分に反映しないということである。これはつまり私達の本能的欲求を満たす 消費者としての私達の意志が、社会的公平性などの公的関心を持つ市民の私達の意思よりも先行してしまっているということである。
 第二に、企業が自らの競争力の向上させんがために行政・立法に介入し始めたということである。

 近年、企業の社会的責任についての論議が盛んである。しかし、ここで企業に社会的公正に関して民主主義と等価の機能を期待することはできない。
 第一に、消費者・投資家はともに社会的責任に大きな対価を払うことを望まないことが実証されているからである。
 第二に、個々の企業の『どうあるべきか』の構想が恣意的に決定される状況では、いかなる行動も『善』になりかねないのである。

 以上、民主主義と資本主義に生じた変化について述べた。ここで強調すべきは、民主主義は資本主義なしでは存立することはできないということである。そしてそれにうまく運営できれば、私達はその両方から十分な恩恵を受けることができるのだ。然るにそれには両制度の境界線の明確化、すなわち国家による健全なルールの制定が必要なのである。ここでそのルールを考えるにあたって知るべき三つの”真実”を挙げる。

 第一に、企業が政治に介入してくるのは阻止されなければならないということである。その方法として例えば献金を規制する企業間協定を創設することなどが挙げられる。

 第二に、社会的な負の影響について企業・経営者を非難する政治家・活動家に用心することである。企業とはあくまでも利潤を高めるために競争するなかで負の影響を及ぼしているにすぎず、悪意のあるものではない。また、企業が社会的公正に介入すれば そのそれぞれが恣意的な『善』の構想を有するがゆえに 社会が不安定になりかねないのである。

 第三に、企業は擬人化してはならないということである。それが結果的に人間に帰属するはずの義務・権利を企業が有し、資本主義と民主主義の境界を曖昧にしてしまっている。それに法人税などの税金を課す、また裁判で争う権利を与えるということを行ってはならないのである。

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