本書は、ハイエクの思想の概説と、それが現代の諸問題に多くの示唆を与える点を指摘したものである。
ハイエクは、近代の合理主義を否定し、人間の無知をすべての理論の前提においた。この懐疑的な考えは、彼の生まれ育った『西洋の没落』の中心地たる戦間期のウィーンという地の特色に由来するのではないかと思われる。
彼の市場に対する認識は、ケインズ・そして合理的期待派とそれぞれ共通点と相違点がある。
ハイエクとケインズの違いは、ハイエクは市場経済を信頼し政府を信じず、ケインズはその反対の認識を持っていたということだ。
これら二点については、ハイエクと合理的期待派は同じ意見を有する。ただし、合理的期待学派はその理論における個人を完全に合理的であることにしたのに対し、ハイエクはそうしなかった。ハイエクにとって市場とは、部分的情報しか有さない非合理的個人が価格を媒介にして外部の情報を取り入れ、無知を修正して進化するメカニズムであった。そしてこの点においては、ハイエクとケインズの見解は共通していた。
そのような認識をもっている以上、ハイエクが社会主義という思想に賛同するわけがない。すべての知識・情報を単一の箇所に集めることは不可能であり、社会を”計画”することはできるわけがないのである。
ハイエクは、個人は自由であるべきだと主張する。然るに彼の指す自由とは、消極的自由と呼称されるものである。積極的自由と呼ばれる概念のが人々を自由たらしめようとアクションを起こすのに対し、消極的自由はそのアクションを否定する。その理由として、積極的自由は消極的自由の文脈においてはむしろ自由を束縛しうる点、そして人間は本質的に無知を抱えている以上 何がどうあるべきかを考えることはできない点が挙げられる。そのうえで彼は、個人の誤謬の修正を可とする消極的自由を擁護するのである。
ハイエクは、人々が利己的な行動を起こすことにより、非理性的・自然発生的な秩序が生まれるとし、その秩序のひとつが市場であるとする。ただし、彼の議論においては、彼の依拠する自然淘汰の理論が既に否定されている点、大規模な市場が西洋文明圏でしか発生しなかった点、その市場がなぜか世界的に普及した点、そしてそもそも個人が利己的に行動することによって予定調和が生まれるという理論的根拠が挙げられていない点などが疑問として残る。
晩年のハイエクは、市場におけるルールの設計の必要性というものを唱え、法哲学的な議論をはじめる。その議論は、慣習法の肯定、それを構成する価値としての財産権の肯定、「分配の正義」の否定、人々の持つ部族社会の感情の指摘など多岐に渡る。
自生的秩序たるインターネットによって支えられつつある今の情報社会に彼の主張は大きな示唆を与える。その例として彼が知的財産権を否定した議論などが挙げられる。
現在、自然・社会科学の研究はハイエクの理論が正しかったこと、そしてハイエクの想像していた以上に人間が非合理的であったことなどを証明しつつある。
ハイエク・そして池田信夫氏の議論を総括するならば、私達に残されている選択肢は、仮にハイエクの唱えた自生的秩序という思想が間違っていたとしてもそれが成立するように努力するしかないということである。
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