2009年3月6日金曜日

『なぜ世界は不況に陥ったのか』・第二章 池尾和人・池田信夫

 第二章・第三章において著者たちは、今回の金融危機の位置づけ・意味を精緻化するべく、この問題を数十年におけるタイムスパンで捉えなおす。これを本章では経済思潮という観点から捉える。

 これまでのアメリカの三十年間は三つのフェーズに分けられる。その節目になるのが、第一に一九八七年のブラックマンデー、第二に一九九七年のアジア通貨危機、第三に二〇〇七年のサブプライム問題である。

 チャールズ・R・モリスによれば、アメリカは三〇年間のスパンで経済思潮が交代するのだという。その間、間逆の経済的思想を持つ党が当選することもあるが、実行する経済政策の傾向に大きな相違はないようである。

 七〇年代終わりから八〇年代初頭のアメリカは苦しめられていた。労働生産性が全く伸びなかったことに加え、石油ショックというサプライドサイドからのネガティブショックに対しケインズ政策を行った結果、グレート・インフレーション(と名づけられたスタグフレーション)が起こったからである。そんな経済の建て直しを期待されたカーター大統領が民意にそぐえず落選した後、八一年に政権は共和党政権のレーガン大統領に移り”保守派”の新たな時代が始まった。

 八〇年代からの二十年間はアメリカにとって繁栄の時代となる。ただし八〇年代の時点では、一般にはまだアメリカは低迷し日本が黄金時代を謳歌していると認知されていた。

 ここでアメリカの復活に大きな役割を果たしたのが、FED議長を務めていたポール・ポルカーであった。彼は伝統的な金融政策(ターゲット水準を設けて金利を誘導し、その金利水準で需給が一致するように資金を受動的に供給する方法)を一旦放棄すること(厳密には放棄したふりをすること)を通して金融引き締めを行い、インフレーションを抑え込む取り組みを行った。この政策は景気後退を引き起こしたことから強く批判されたが、それが結果的に成功しアメリカの持続的拡張の基盤を形成することとなった。

 ”保守派”は供給側を重視する政策を採る。これは、フリードマンが68年に発表した自然失業率理論以降の経済学の潮流を反映したものであり、その時点ではもはやケインズ政策は否定されていたのである。

 供給側の変化で特筆すべきなのは、それまでの大企業型の経営が行き詰まりを見せたことだ。大企業の資本効率は段々悪くなっていったのである。そしてそれら既存の産業の大企業が没落し、新たにIT産業・金融業がアメリカ再生の原動力となったのである。

 この三〇年間の第二フェーズが始まるのは八七年、FED議長にグリーンスパンが就任した年であり、ブラックマンデーが発生した年である。

 大雑把にいえばグリーンスパンの金融政策はギャンブラー的なものである。それは歳量的なもので、金利水準を見るとジェットコースターのように上げて下げるような運営をしている。このような相場を貼ったような金融政策を考えるに、FED議長としてのグリーンスパンの十八年のキャリアは前半2/3と後半1/3に分けて考えられる。前者はそのギャンブルが成功し、後半はその勝負運が続かなかった時期である。なお、後述するように この後者のほうがこの三十年間の第三フェーズである。

 ブラック・マンデーとは金融危機の一つであり、投資戦略の「合成の誤謬」によって生じたものである。これは、株式のリスクをヘッジするべくブットオプションを購入する代わりに、先物と現物の資産を動的に組み替えていくという投資戦略を多くの投資家が導入してしまったゆえに、価格の与件性が崩れてしまったことによって発生したのである。
 なお、このブラック・マンデーの発生はコンピュータの発達と密接に結びついている。人間が手作業でやれないような複雑な作業をある種のアルゴリズムに基づいたプログラム取引が可能になったからこそ、こういう投資戦略がはやるようになったのである。

 この時期、クリントン率いる民主党に政権が変わる。これは、増税を行わないと約束した父ブッシュがその約束を破ったことに対する民意の反発によるものである。彼はこの政策をレーガン政権によって発生した膨大な財政赤字を解決するために行ったものであた。

 第三フェーズは、アジア金融危機が勃発した年から始まる。この翌年にロシア危機など発生し、悲劇が続いていく。

 アジア金融危機以前の東アジア諸国の経済発展は、積極的に外資導入を行うことによる経済発展であった。なお日本は、外資導入を強く回避し六十年代になってOECDに資本自由化を迫られたこともあった。日本は国内の貯蓄を資本蓄積の源泉として経済発展してきたのだである。

 そのような東アジア諸国の経済発展方式は、アジア金融危機をきっかけに外資が突然出ていったことに懲りて、日本に類似した経済成長路線に転換することになる。

 そんな状況の中で東アジア諸国は貯蓄超過になった。そしてこの東アジア諸国と同様の変化を起こしたラテンアメリカ諸国も貯蓄超過となる。産油国は当然貯蓄超過であるので、これはつまり世界中のほとんどの国々が貯蓄超過になったということである。

 これらの国々は、アメリカに投資機会を求めた。二〇〇〇年以降の世界経済をみると、唯一アメリカだけが投資超過国となっている。このようなグローバルインバランスがさらに急激に拡大していく。後の章で述べるように、このインバランスの存在が今回の金融危機の大きな原因の一つである。

 このグローバルインバランスの責任は貯蓄超過国・消費超過国どちらにあるか、という点については議論が分かれる。ただし、この問題を捉えることにおいて「アメリカ人が浪費好き」と考えるのは問題を単純化しすぎている。アメリカは大変効率の悪い高コスト構造を持っており、これがアメリカの消費超過の原因である。

 二〇〇〇年にはインターネットバブルが発生する。これはグリーンスパンですらこれがバブルであると見抜けず、それを見抜けた人間はイギリスのThe Economistsの一部の人間などと数少なかった。しかしこの被害はとても小さいものであった。

 ただしこのバブルが後の住宅バブルの発生の一因になってしまう。グリーンスパンはデフレに対する警戒心が非常に強かった。このデフレが発生するリスクは低いが、万が一発生した場合は非常に経済にダメージを与えてしまう、そのようなテールリスクを払拭するため、テイラールールなどで判断したレベルを超えたいっそうの金融緩和を行う。これが結果的に、住宅バブルを起こす引き金になるのである。

0 件のコメント: