ユダヤ教の異端派として迫害されたキリスト教が、本日の西洋世界の主要な信仰となる。高校生のオタクが調子に乗って作ったプログラムが、ウェブの王族たるYahoo!のサーバーをダウンさせる。大学中退組のぼんくら男の造ったiPodが世界的なシェアを獲得する。これらの不思議な現象の背後に、私達はネットワークという法則の存在を垣間見る。
ネットワーク*1においては、無数のハブがノードと呼ばれるものによって相互に結合されている。そのなかで一部のハブは、古参であるがゆえに、あるいはその環境における適応力が高いがゆえに、多数のハブとノードで繋がる。たとえばネットワークにおいては、Googleなどの検索エンジンが例としてあげられるであろう。 なお、そのような特性であるがゆえに、ネットワークはベキ乗グラフとして表されることが多い。
ネットワークはその構造から”故障”には強い。仮に多くのノードを繋いでいるハブが”故障”したとしても、多くの場合 それに次いで影響力のあるハブがその故障したものを支えるからである。ただし、最も影響力のあるハブ、そしてそれに次いで影響力のあるハブを潰そうとする”攻撃”には弱いのが特徴である。
このネットワークという法則が発見されるのは、生活空間、政治、経済などといった、社会的な分野だけに留まらない。数学、生物学、生態学のみならず、最先端の量子力学にも見られるというのだから驚きである。 この法則を鑑みて政策を考える、という動きも既に始まっている。AIDSの蔓延を抑える活動が一つの例である。人が性交渉を持つ割合もネットワーク型になっており 性交渉を多数持つ人間のAIDSを優先的に抑制すれば 全体のAIDSの割合も減少するのである。
ただし、そこには時たま倫理的な問題が発生することもある。上の政策を例にあげるなら、性交渉を多数持つ娼婦のAIDSの抑制・治癒を 一般的な中産階級の市民よりも優先するのは如何なものか、といったものである。
*1 この要約でネットワークという言葉が指すのは、一般的なスケールフリー・ネットワークであるとする
2008年12月27日土曜日
2008年12月24日水曜日
『真の個人主義と偽りの個人主義』 F.A.ハイエク
ハイエクは以下のように述べる。現代の諸問題を解決する指針は『個人主義』である。然るに、『個人主義』という用語は大きく誤解されている。というの も、『個人主義』にも”真の個人主義”と”偽りの個人主義”の二つの別種の思想があり、それらが長らく混同されてきたからである。(ハイエクが”真の個人 主義”を真と呼ぶ所以は、彼の個人的な価値判断による。)
それらは異なる起源を持っている。前者はロック・ヒューム・マンデヴィルなどによってその近代的発展を開始し、タッカー・ファーガソン・スミス・バーグに よって初めて思想として十分に開花された。後者は、フランスなどの欧州の著作家などによって開始され、百科全書派や重農主義者がその伝統に則っている。
”真の個人主義”と”偽りの個人主義”にはいくつもの相違点があるが、最も重要なのは、個人の絶対的自足性・孤立性、あるいは絶対的合理性を肯定するか否かという点である。ここから他の多くの論点に波及する。
”偽りの個人主義”は、個人というものを絶対的に合理的で、単独で存在しうるものとして定置する。然るに”真の個人主義”はそれを否定する。他者の行動が 個人の行動を左右しなければ、(他者と個人の行動には相関関係があることを前提としている)社会分析は成り立たないはずである。しかし、実際には成り立つ 以上、個人は単独で存在しうるものではない。それに、人は全てを知ることが出来ず、知識と認識に限界がある以上、真に合理的な行動を取ることが出来ないか らである。
そのような非合理的存在であるにも関わらず、社会のなかで偉大なるものは自然生成される。これも真の個人主義の特徴的な主張の一つで ある。たとえば、国家というものは誰かが意図して作ったものであろうか。否、そうではない。世にあふれる偉大なるものは人為的に作られたものではないので ある。
真の個人主義は、利己主義的であることを肯定する。ここにおける「自己」とは、当然ながら家族や友人といったものも含む。それは以下の二 つの議論によって構成される。第一に、人間には限界が内在している以上(この点については先ほど論じた)、ある人物が認識できる限りの人々の必要(ニー ズ)を充足しようとしても、それは社会の一部の成員の必要(ニーズ)でしかない。第二に、たとえ利己的な行動を起こしたとしても、市場と呼ばれるものはあ る人物の認識外の人々の必要(ニーズ)を満たしうるということである。
強制的権力はいかにあるべきか、という点について、真の個人主義を述べて きた哲学者の間でも意見の相違がある。ここでは個人主義の教義から導き出すことのできる以下の二点を検討する。ある個人が関心の持つ諸目的を遂行しようと して、彼のもつ独自の知識と技術を用いようとするのであれば、そしてもしそうする過程において、自分の視野を越えた諸要求にできるかぎり貢献をしようとす るものであれば、①彼は明白に限定された範囲について責任をもつべきであり、②彼が達成しうる様々な成果の彼にとっての相対的な重要性は、彼の行為のもた らす、もっと遠いところの、そして彼の知らないような書結果が、他人に対して持つ相対的な重要性と対応するものでなければならない、ということである。
①から、公共機関のやるべきことは、個人が個人自身で物事を決定するに当たって考慮に入れることができる原則を遵守させるということのみであることが考え 出せる。それは、ある個人の行為が引き起こしうる遠い将来の間接的結果に、個人の意志が左右されずに済むという制度設計のみに公共機関が力を入れることを 意味する。それは、強制ではなく相対立する諸目的間の衝突を防止する手段でなくてはならない以上、遵守させる諸原理とはは特定の目標に向けた具体的のもの ではなく抽象的なものでなくてはならない。
②から、個人主義的な秩序のあるべき二つの条件が導き出される。それらは、①’彼の努力の結果が人々 にもたらす相対的な効用に対応するということ ②’彼の期待する相対的報酬はその努力の客観的な価値に対応しなければならないということであり、これらの 条件は競争の働く市場によって充足される。
国家と個人の中間的な形成物や共同体そして伝統・慣習などというものは、真の個人主義の考えでは守る べきものとして捉えられている。それは、以下の二つの議論に基づいている。第一に、そういった形成物や共同体の努力は肯定されるべきものである。第二に、 それらが人の行動の不確実性が除去することによって 国家が不必要な強制力を働かせる機会も減る。そして、個人はそれら伝統・慣習、そして後に起こる変化 に、たとえそれらが非合理的なものであると感じたとしても則るべきなのである。合理的である規則というものを人間が認知できるはずもないし、そういったも のを求めても答えは出ない。それよりも先ほども述べた個人の責任範囲の問題から不確実性を除去することを考えるべきであろう。
民主主義を真の個人主義は肯定をする。それは個人主義の教義からも導き出される。しかし、大多数の意見が正しいという捉え方をしないのが、偽りの個人主義との相違点である。
平等について、真の個人主義は平等たらしめることはしない。個人の地位を他者が決めてはならないという教義からそれは導き出され、そしてそれこそが平等であると述べる。
それらは異なる起源を持っている。前者はロック・ヒューム・マンデヴィルなどによってその近代的発展を開始し、タッカー・ファーガソン・スミス・バーグに よって初めて思想として十分に開花された。後者は、フランスなどの欧州の著作家などによって開始され、百科全書派や重農主義者がその伝統に則っている。
”真の個人主義”と”偽りの個人主義”にはいくつもの相違点があるが、最も重要なのは、個人の絶対的自足性・孤立性、あるいは絶対的合理性を肯定するか否かという点である。ここから他の多くの論点に波及する。
”偽りの個人主義”は、個人というものを絶対的に合理的で、単独で存在しうるものとして定置する。然るに”真の個人主義”はそれを否定する。他者の行動が 個人の行動を左右しなければ、(他者と個人の行動には相関関係があることを前提としている)社会分析は成り立たないはずである。しかし、実際には成り立つ 以上、個人は単独で存在しうるものではない。それに、人は全てを知ることが出来ず、知識と認識に限界がある以上、真に合理的な行動を取ることが出来ないか らである。
そのような非合理的存在であるにも関わらず、社会のなかで偉大なるものは自然生成される。これも真の個人主義の特徴的な主張の一つで ある。たとえば、国家というものは誰かが意図して作ったものであろうか。否、そうではない。世にあふれる偉大なるものは人為的に作られたものではないので ある。
真の個人主義は、利己主義的であることを肯定する。ここにおける「自己」とは、当然ながら家族や友人といったものも含む。それは以下の二 つの議論によって構成される。第一に、人間には限界が内在している以上(この点については先ほど論じた)、ある人物が認識できる限りの人々の必要(ニー ズ)を充足しようとしても、それは社会の一部の成員の必要(ニーズ)でしかない。第二に、たとえ利己的な行動を起こしたとしても、市場と呼ばれるものはあ る人物の認識外の人々の必要(ニーズ)を満たしうるということである。
強制的権力はいかにあるべきか、という点について、真の個人主義を述べて きた哲学者の間でも意見の相違がある。ここでは個人主義の教義から導き出すことのできる以下の二点を検討する。ある個人が関心の持つ諸目的を遂行しようと して、彼のもつ独自の知識と技術を用いようとするのであれば、そしてもしそうする過程において、自分の視野を越えた諸要求にできるかぎり貢献をしようとす るものであれば、①彼は明白に限定された範囲について責任をもつべきであり、②彼が達成しうる様々な成果の彼にとっての相対的な重要性は、彼の行為のもた らす、もっと遠いところの、そして彼の知らないような書結果が、他人に対して持つ相対的な重要性と対応するものでなければならない、ということである。
①から、公共機関のやるべきことは、個人が個人自身で物事を決定するに当たって考慮に入れることができる原則を遵守させるということのみであることが考え 出せる。それは、ある個人の行為が引き起こしうる遠い将来の間接的結果に、個人の意志が左右されずに済むという制度設計のみに公共機関が力を入れることを 意味する。それは、強制ではなく相対立する諸目的間の衝突を防止する手段でなくてはならない以上、遵守させる諸原理とはは特定の目標に向けた具体的のもの ではなく抽象的なものでなくてはならない。
②から、個人主義的な秩序のあるべき二つの条件が導き出される。それらは、①’彼の努力の結果が人々 にもたらす相対的な効用に対応するということ ②’彼の期待する相対的報酬はその努力の客観的な価値に対応しなければならないということであり、これらの 条件は競争の働く市場によって充足される。
国家と個人の中間的な形成物や共同体そして伝統・慣習などというものは、真の個人主義の考えでは守る べきものとして捉えられている。それは、以下の二つの議論に基づいている。第一に、そういった形成物や共同体の努力は肯定されるべきものである。第二に、 それらが人の行動の不確実性が除去することによって 国家が不必要な強制力を働かせる機会も減る。そして、個人はそれら伝統・慣習、そして後に起こる変化 に、たとえそれらが非合理的なものであると感じたとしても則るべきなのである。合理的である規則というものを人間が認知できるはずもないし、そういったも のを求めても答えは出ない。それよりも先ほども述べた個人の責任範囲の問題から不確実性を除去することを考えるべきであろう。
民主主義を真の個人主義は肯定をする。それは個人主義の教義からも導き出される。しかし、大多数の意見が正しいという捉え方をしないのが、偽りの個人主義との相違点である。
平等について、真の個人主義は平等たらしめることはしない。個人の地位を他者が決めてはならないという教義からそれは導き出され、そしてそれこそが平等であると述べる。
『フロイト先生のウソ』 R.デーゲン
科学ジャーナリストのロルフ・デーゲン氏は、心理学を「最も重要な学問であると同時に、最もどうでもよい学問」と述べる。心理学は神話にまみれている し、神話の首をどれだけ切っても再生し続けるし(否定されたはずの精神分析はいまだに信じ続けられ続け そういった神話はかたちを変えてまた世に登場し そのなかには神経言語プログラミングなどと名前だけ科学の体裁をとった厄介なものもある)、それに加えて心理学はいまだに人っ子ひとりを禁煙させることも できないのである。しかし、心理の問題は私達の根本問題であり続けると同時に、神話の陰に隠れてちゃんと実証的な研究も進んでいるのである。
デーゲン氏は、ちまたに跋扈する俗説を実証的データにより論破するなかで、私達に心理学の最前線を見せ付ける。それら論破された言説は私達が信じ込んでいるものばかりであった。以下、実証された新たな事実を適当に選んで並べてみる。
「心理療法には全く効果がない(三年以内に大概の人間は自然治癒する)」
「人格に働くのは遺伝的作用が比較的強い(教育や環境はそこまで強く作用しない)」
「自尊意識を高めても、学力は高くなるわけでもないし、コミュニケーション能力も高くなるわけでもないし、非暴力的になるわけでもない」
「自尊心の低い子は、物事を客観的に見ることが出来る(自尊心の高い子は客観的に見る回路を麻痺させている)」
「マスメディアはほとんど影響を与えることはない」
「モーツァルトも、褒めることも、頭を良くすることは一切ありません」
「瞑想は、してもしなくても変わらないし、気が滅入る子もいる」
目から鱗が落ちるとは、こういうことを言う。
デーゲン氏は、ちまたに跋扈する俗説を実証的データにより論破するなかで、私達に心理学の最前線を見せ付ける。それら論破された言説は私達が信じ込んでいるものばかりであった。以下、実証された新たな事実を適当に選んで並べてみる。
「心理療法には全く効果がない(三年以内に大概の人間は自然治癒する)」
「人格に働くのは遺伝的作用が比較的強い(教育や環境はそこまで強く作用しない)」
「自尊意識を高めても、学力は高くなるわけでもないし、コミュニケーション能力も高くなるわけでもないし、非暴力的になるわけでもない」
「自尊心の低い子は、物事を客観的に見ることが出来る(自尊心の高い子は客観的に見る回路を麻痺させている)」
「マスメディアはほとんど影響を与えることはない」
「モーツァルトも、褒めることも、頭を良くすることは一切ありません」
「瞑想は、してもしなくても変わらないし、気が滅入る子もいる」
目から鱗が落ちるとは、こういうことを言う。
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